昭和46年2月12日 朝の御理解

御神誡
信心する人の真の信心なきこと

( ? )御祈念中に頂きましたことは、神徳という事ですが、神徳というのは、神の徳と言うのじゃなくて、真の徳と書く。( ? ) 真徳、真の徳。神徳とか、仁徳とか御神徳を受けるとかねー、と言うのではなくて真の徳。私は、この真の徳という徳こそ、これは神徳、仁徳というものを合わせたようなものであろうと思いますねー。
( ? )神徳と仁徳ということについて、( ? )神様ごと、人ごと。真の徳ということ、本当の徳ということになりましょうか。と言うのは、だからやっぱり、神徳、仁徳兼ね備えたと言ったようなことを真の徳と言うのではないでしょうか。もう神徳と( ? )られて、なら、教典を開きましたら、「信心する人の真の信心なきこと」とこうある。( ? )私の上に真の信心をするということ、真の信心にならせて頂くということがです、ね、えー、それがだんだん、こう、積み上げられていくと、真の信心が、積み上げられてくると、言うなら、真の道をだんだん極めていくということ。ということが真の徳を受けることだろうと、こう思います。もちろん今こうやってここで思うことは、真の徳というものが、だんだん徳になってくるならねー、えー、真の、言うなら、あー、おかげは、( ? )真のおかげと申しましょうか、真になってくるもんだと思います。そこでね、どういう信心、例えばさせて頂いたらこの真の徳が受けられるか、より真の信心が真がだんだん出来てくるかと、ここに信心するとも真の信心なきことと言うておられますように、たくさん信心する人はあろうけどもね、その真の信心を言わば生み出して、いわゆる( ? )で頂く真徳。いわゆる、真の徳を身に受けていく人が少ないということであろうと思います。四神様の御時代だったでしょうかね、えー、あの、春か秋かの御大祭のときに、それこそ、境内をうめつくすほどしの御参拝があった。ある先生が、四神様に向かって、ほんとにおめでたいことだと思います。たくさん御参拝があってありがたいことですと言うて申し上げたら、四神様がおっしゃった。さぁ、もう、これだけたくさんの人が参ってくるが、真の信心をしているものが何人おろうかとおっしゃった。そのようにやはり、だから難しいということが分かります。第一、真の信心をさして頂きたいなどと願う人すらがない。どうぞ、真の信心をさしてください。いや、真の信心をさしてもらおうと動きする人すらがない。その場、その場のおかげを受けて、( ? )行くことには、( ? )しておる。けれども、真の信心、いわゆる真の徳なる、ね、真の徳、真徳を、受けたい、また受けねばならぬ。信心する人の真の信心なきこととおっしゃるから、私は、どうでも真の信心を身につけていきたいと、んー、願うものなんですが、そんだけたくさんの参拝者の中に、さぁ、この中に何人真の信心しているものがあろうかとおっしゃる。そこんところをね、んーと、まぁ、聞いて頂きたいと思います。ですから、やはり、その、そこに目的をはっきり置かなきゃいけない。真の信心をさせて頂くためには、どういう心がけにならせて頂いたらいいか、真の信心をさせて頂く、ためには、どのような信心をさせて頂いたらいいのか、ということになるわけですねー。昨日は、61節に、なんて言うんですかねー、平易な身において、えー、金光大神の教えたことを違わぬように人に伝えて、真の真徳を真を知ることが出来ますね、真の信心をさせるなら、神様が御礼言う。これが神になるのぞと・・・。言うなら、( ? )御理解を頂きました。信心しておかげを受ける。まぁ、そこまではね、真の信心なんか全然目指していない。( ? )おかげを目指しておる。だから信心しておかげを頂く、だから、おかげを頂いたら、神心となりて人に丁寧に話をしていく。その辺から真の信心になってくる。ネ。信心しておかげを受けるというそれは、そこまではまだ真の信心ではない。( ? )誰でも、だから、それこそたくさんの参拝者があっておるだろう。